移住体験記
〜第8話 三宅 健吾さん〜
移住体験記 第8話は、旭川、十勝、美深、稚内へと移り住んだ三宅 健吾さんです。


【第1章】 北海道定住までの道のり

 早いもので北海道へ移住してから5度目の夏を迎えました。この度投稿の機会を頂いたので、私の稚拙な移住記録が少しでも役に立てばと思い筆を執りました。まず第1章は北海道に定住するまでの私の奮闘ぶり!?をご紹介します。

冬の美深町  生まれも育ちも京都の私。ひょんなことで勤めていた会社を辞め、思い立ったのが学生の頃から旅行に訪れ憧れていた北海道移住でした。若気の至り(当時25歳)で家だけ決めて、就職先も決めずに北海道へやってきたのが2001年3月10日。放射冷却で冷え(気温は-17℃)、快晴の旭川市にやってきました。

 家だけは保証人などの要らないマンスリーマンションを契約し、就職は何とかなるさと思い、失敗したら京都へ帰ろうと思っていました。まず北海道へ来てどんな仕事がしたいのか?これに一番迷いました。仕事を決めずにやってきても、どんな仕事がしたいかだけははっきりさせておいた方がいいですよ!毎日ハローワークに通い、求人誌をチェックし、はたまた公務員試験の勉強をかじりつく日々でした。そうこうしているうちに貯金も底をついてき、食生活もけちけちするようになって来ました。太り気味だった私はダイエットするのに丁度よいと考え、時間が持て余したこともあってジョギングを開始しました。なんと2ヶ月で20kg近く減量したのです。(今ではすっかりリバウンドしましたが…)

 話はそれましたが、仕事を探している過程でせっかく北海道に来たのだから北海道らしい仕事がしてみたいと思い、農業関係の仕事を探し始めました。インターネットの掲示板で十勝の清水町で酪農家を志す方達の集いが開催されることを知り参加しました。会合にはもうすでに酪農の仕事に従事していて、自分の牧場を持ちたいという志の高い方ばかりに出会い、また同じ関西から移住され牧場をされている方とも親しくなり、刺激を受け、農業(酪農)に憧れを持った1日でした。

 時期を同じくして、ハローワークから受験を勧められた某電気量販店の面接を受けることになりました。ここでの面接で移住者がよく聞かれる「なぜ北海道に来たのか?」という質問を私もされました。「北海道という自分にとって理想の土地で、自分の力を存分に発揮したい!」と言ったところ、「そんな甘い考えで生活なんかできるわけない!」と言われ、この会社には採用されないなと思っていたところ、採用の知らせが…。旭川でサラリーマンをするか、十勝で酪農実習をするか、大いに悩んだ末に酪農の仕事をするため十勝に行くことにしました。

 酪農家に住み込みで働いたのは4ヶ月でしたが、このときの経験は今の北海道生活の原点になっています。朝早くから夜遅くまでの労働は精神力がつきましたし、また牛の生死にも多く遭遇しました。酪農の仕事を通して、働くということがどういうことか実感できた気がします。また私同様住み込みで働いていた仲間との絆も深くなり、大変有意義な期間を過ごしました。このまま酪農家でしばらくお世話にもなろうかと思いましたが、若いうちに様々なことがしたいと考えました。そんな折、旭川に住んでいた時に何度か訪れていた美深町の「トロッコ王国」のスタッフとしてやらないかとの誘いを受け、美深町へ移ることにしました。


【第2章】 美深トロッコ王国

美深トロッコ王国  「鉄道」それは30年の私の人生を語る上で欠かせないものです。幼少のころから列車に乗ってあちらこちらへ行くことが好きだった私は日本全国を旅し、ついには日本全国のJR路線を完全乗車しました。北海道は大学時代に初めて青函トンネルを通って来ました。そのときの広大な風景に感動しまし、その後北海道を鉄道で何度も旅を重ね、そうした経験が私の北海道移住を後押ししてくれたのだと思います。

 かつて北海道に「美幸線」というローカル線がありました。線名の通り、美深町から枝幸町を結ぶ予定でしたが、美深町の仁宇布(にうぷ)駅まで部分開業した後、枝幸町までレールを敷けば列車が走れる状態まで建設をしながら、列車は1度も走ることなく昭和60年に廃止された悲劇のローカル線です。一時は日本一の赤字ローカル線になり、町長が日本一の赤字を挽回すべく、銀座で切符を売って話題になりました。当時小学生の私でしたが印象深く美幸線の廃止は強く印象に残っています。

 2000年のゴールデンウイークの北海道旅行中そんな美幸線の跡地でトロッコに乗って廃線跡が運転できると聞いた私は仁宇布駅の跡を訪れました。訪れたのは5月でありましたが、あたり一面雪景色で驚きました。当時は知る人ぞ知る場所だったので、ほかの旅人の人たちとゆっくりとした時間を過ごしたことを覚えています。

 北海道に移住した2001年は最初旭川に住んでいたこともあって、何度か手伝いに美深へ通ってました。この年はちょうどトロッコがマスコミに取り上げられ、人気が高まってきた年でした。そうした中安全運行をし、永続的に発展していくために、常駐のスタッフを置き、NPO法人化する話になりました。元々鉄道好きな私にとって、鉄道に近いことができ、しかも美幸線で!ということもあり、美深町にやってきました。それから約2年間夏はトロッコのスタッフ、冬は除雪の仕事やIT講習会の講師、酪農ヘルパーなどしていました。

 北海道へ来てからの大半を美深町で過ごしたこともあり、色々な経験もしました。美深町は内陸の町で、年間の寒暖差60℃ありしかも雪の量が半端ではありません!"雪が積もる"と言うより"雪に埋もれる"と言った方が適切なくらい多い雪。冬は毎日家の前の除雪は欠かせませんし、月に一回は屋根の雪下ろしが必要でした。また寒いときは−30℃まで下がるので、水道管の凍結やつららによる窓ガラスの破壊、突風によるテレビアンテナの倒壊など…雪国の厳しさは全て体験しました。この経験から道内どこへ行っても大丈夫だという自信は付きました。また数多くの方とめぐり合ったのは貴重な財産です。美深での生活を通じて、人との繋がりの大切さを実感しました。何の地縁もない美深で生活ができ、冬期間仕事があったのも人との繋がりがあったからです。これから北海道へ移住されようとしている方にはぜひ伝えたい教訓です。「石の上にも三年」と言いますが、北海道移住についても同じことが言えると思います。自分の考えが合わず、せっかく田舎で暮らし始めてもすぐに退去する方が多いと聞きます。ぜひご自身の目で住みたい土地を見て、知り合いを作ってからの移住を勧めます。

 トロッコ王国の活動に関わってちょうど4年になろうとしています。現在は美深を離れましたが、月に数回は手伝いに行っています。トロッコ王国の活動は私の北海道生活にはなくてはならないもので、北海道にいる限りは関わり続けるつもりです。トロッコ王国の魅力はなんと言っても、往復10kmもの距離を、自分自身で線路上を運転できることです!日本広しと言えども、この体験ができるのはトロッコ王国だけです。自然の中を走るので「走る森林浴」が体験できます。春は残雪と水芭蕉、夏は木々が作る緑のトンネル、そして秋は真っ赤に染まる紅葉とわずか開国期間半年で春夏秋冬が楽しめます。詳しくはこちらのホームページをご覧ください。(ちなみに私が作成管理しております)お近くへお越しの際はぜひお立ち寄りください。

 美深でようやく自分ひとりなら何とか生活していける状態になったころ、本州の友人から起業の話を受け、最北端の町稚内へ移ることにしました。


【第3章】 稚内での起業とこれから

塾の授業風景  私は中学生の頃、"学校の先生"になりたいという一つの夢を持ちました。当時の社会科の先生がすごく親しみやすく、またその先生のおかげで社会科の成績が良くなったということが大きな理由だと思います。

 大学時代は経営学部に通っていましたが、専門科目の勉強よりもむしろ教職課程の勉強に力を入れていました。しかしながら将来の進路を考えたとき、私のなりたい社会科の教員はどの都道府県も倍率が高く、並大抵の努力では試験を突破することができません。そうした中目指したのが"塾の先生"の道でした。就職活動の結果ある塾へ就職が決まり、そこで数年間勤務しました。 塾の仕事はほとんど休みもなく、ハードなものでした。短い休みを利用しての北海道旅行は私にとっての清涼剤でした。そのような労働環境も私の北海道移住を後押ししたと言えます。北海道へ来た当初、塾講師ならば簡単に就職は決まったでしょうが、敢えてその道は選びませんでした。

 ところが私の塾時代の友人N氏は毎年北海道へ私を訪ねて来てはN氏の転職した別の塾へ来ないかとのお誘いをかけて来ます。私自身は塾の仕事をするつもりもなく、何とか食べてはいけたので丁重に何年も断り続けていたのですが、ある時、「北海道で塾をやらないか?」との誘いを受けました。私としてはこれで北海道へ一生定住できる可能性が高まったと思ったし、N氏にとっては家賃などが大阪に比べ約半分でできるメリットが合致し、学習塾の開設となりました。

 私が開設地に選んだのは、日本最北端の町'稚内'。北海道へ来た以上最北の稚内に住んでみたいと思っていたのが出店の大きな決め手でした。開設から1年半、ようやく知名度も広がり、採算ラインも超えるようになってきました。この1年半評判を広める難しさを思い知らせれましたが、自分で何から何まで企画するやりがいを実感することができました。もう少し業績が良くなれば、稚内市内にもう1教室出店させたいと考えています。

 塾では中学生を中心に指導していますが、自分自身の力で地縁もない北海道にやってきて、何とかやってきた5年間の経験が指導にも役立っています。中学生時代、鉄道に興味を持ち、学校の先生になりたいという自分の「夢」が北海道で叶えられたことから常に夢を持つようにと話をしています。
 開拓使の会の皆様のご子弟で、何か勉強でご相談がございましたら、誠意を持って対応をさせていただきますので、メールをください。

 以上3章にわたりお伝えしてきましたが、独身で、縁もゆかりもなくても約5年間北海道で生活を営み、様々な貴重な体験をすることができました。しかしながらこのまま40、50、60になっても生活が営めるかと言われれば???です。これが北海道の厳しさなのかなと…。常に新しいことを考え、前向きに生きていかねばと思っています。
 でもこれだけ北海道の自然に囲まれ、思い通りの生活を経験した以上、本州に帰ろうとは思いません。これからは"パートナー"探しという課題があります。価値観が分かり合える良きパートナーに出会い、今の塾を全道に展開したい夢を持っている。また農業やペンション経営など"家族経営"が出来るものを将来はやりたいなと思っている。こう思えるのはやはり「北海道が大好き」だからと思います。

追伸:私の近況をHPで公開しております。ぜひご覧ください。==> http://www12.plala.or.jp/miyaken5/

   また、私が撮影した動画像もご覧いただけます。トップページから「移住促進PR動画配信」の「稚内市」をご覧ください。


2006年1月 三宅 健吾さん
稚内市在住
e-mail: miyaken5@agate.plala.or.jp

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